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【借金】消費者金融から100万円借金して誰にも迷惑かけずに返済した話

無知は罪

何も知らない、都合の悪い事を知ろうとしないのは自らが犯す罪。金を借りることに関しては確実に言える。
金を借りるのは構わない。ただし、仕組みくらいは知っておくべき。
過去の自分は何もしらなかった。恐ろしいくらいに。以下、金を借りて返済を完了するまでの顛末を今回の記事にしたいと思う。

そういう時代

消費者金融から金を借りたのは10代後半から20代前半頃だったと思う。
会社の先輩たちとたまに借金の話をしていた。
「カード作って僕はこれ以上借りませんと言ってた奴が、しばらくして聞いてみたらカード3枚になってた。あれは魔法のカードだから」
サラ金のカードは作るなよ、金かりるなら銀行にしとけ、金利安いから」等
その時はなんとなく聞いていた記憶がある。
その会社の人たちはローン返済してる人が多かったから、先輩と「全員揃ってローン・レンジャー!!」とかいってふざけていた。簡単に金を借りられる雰囲気がある時代だった。
ポケットバンクや円ショップ。。。
今考えたらとんでもないネーミング。なんか腹たってくるな。
本当に簡単に金が借りられた。ATMみたいな所でまだ扶養に入ってる保険証を使って借りた記憶がある。今考えたらとんでもない話だ。
最初の限度枠は20万だったかな。。。そんなに高額じゃなかった。生活費というよりは遊びの金。仕事やめた後、適当にバイトして足りない分はサラ金カード使って。

金利を考えない返済法

なんとなく金をかりて返済してを続けて数年。カードは2枚になっていた。最初は三洋信販、2枚めは武富士。どちらも今はもうなくなってる。末期に行っていた返済法。返済分を借りてその場で返済する。
2万円が最低の返済金額だとすると、2万円借りて、その場で2万円返す。
多分元利均等返済のスライド式なはずだからこの方法を繰り返すと将来的にはほとんど元金が減らないことになる。
信じられないことに当時はずっとこの方法でいけるんじゃないかと思っていた。
この方法をまだ借金してないバイト先の人に話しをしたら数日後にその人は新しいヴィトンのエピの財布を買っていた。おさがりのエピの財布はその人からもらった。その後、その財布は中身の金ごと窃盗にあう。

当時の消費者金融金利

適応された上限金利の年率 29.20%たしかこれだったはず。
「債務者(借り手)が任意に、利息の支払いと認識して支払いをした」場合はみなし弁済として利息上限法を超える利息の支払いが、1983年に制定された貸金業法で認められていた。
未だにこの意味がよくわからない。
とにかく年利は29.20%。年間10万円借りたら約13万の返済。そのまた昔はもっと高かったらしい。
金融屋は元金を客に渡しておいてずっとそのままにしておいたほうがもうかる。元金を返済してほしくない。
金利の支払いが元金を超えたらその先はずっと利益が出続ける。
そういう顧客が何万もいたらかなりの儲けだ。金主になればかなりいい商売ということができる。このシステム考えてビジネス化したのは確かユダヤ人だったような気が。いいこと考えたなぁ。

返済活動

この生活を続けて数年、残債は100万円に届こうとしていた。
仕事もしないで適当に過ごしていたら数年でこの金額。
本格的に返済活動を始めたのが23歳くらいのころだったと思う。
ようやく実家を離れて神奈川の日産の工場へ。ここが数ヶ月で業務終了となり、同僚はみんな故郷へ帰っていった。僕は大田区新聞販売店へ行く。家もないし、金もない。このまままた実家へは戻らない。
とはいえ悲愴な決意があったわけではない。東京で生活してみたかったのだ。
当時の求人誌ガテンで探して数件の販売店に電話をした。いくつか断られた後、とある販売店にお世話になることになった。

新聞販売店の仕事

深夜2時30分ころに起きて届いた新聞に折込をいれて3時前に出発。
6時ころに配達完了。7時ころまでに朝ごはんを食べて寝る。
13時ころに起きる。14時30分くらいに夕刊がくるのでそのまま配達。
16時過ぎに完了して、晩ごはんを食べる。
19時から20時くらいまで拡張の時間。
20時30分には終わる。22時ころまでには寝てまた深夜2時30分くらいに起きる。このくりかえし。
たまに電話番、折込当番が入る。この時は昼間あまり寝れない。
月末になると集金がある。
最初は中々きつかった。順路を完全に覚えて一人でできるまで休みがない。2週間くらいっ休みがなかった。
22時ころ寝て2時半ころに起きる。これもなれるまでなかなか大変だった。
昼間寝すぎると22時ころに寝れない。
日曜は朝刊のみだけど昼から少し拡張の時間がある。電話番になったら17時までいないといけない。
充てがわれた部屋は販売店の2階。4畳もなかったような記憶がある。テレビが一台ベッド一つ。風呂はシャワー室みたいのがあって洗濯機があった。当然共同利用。
夕ご飯はまかないだけど、朝はないので夕ご飯の残りを食べる。部屋代とまかない代でだいたい3万くらい引かれてたと思う。
最初は免許がなかったので自転車で配達。中原街道添いの区域だった。坂しかない。
特に雨の時はきつかった。1回だけもうやめようと思ったけど、即刻借金の事を思い出して、やっぱやめられないとなってしばらく続ける事となる。原付の免許を取ったあたりからだいぶ楽になった。
こうして書くと凄まじい地獄のように見えるけど、実際はそんな事はなかった。慣れて自分の居場所ができたらむしろ居心地の良さすら感じた。
周りの人たちは借金で失敗した人が多かったけど人はよかった。
いつもコントみたいな掛け合いをしてて飽きなかった。
所長も話がわかる人で、従業員に無理をさせなかった。よく、所長になるまでの苦労話を聞いた。すさまじい労働量だったらしい。ここにいる間は家族的で心細さを感じる事はなかった。今東京で仕事をしながら暮らせているのもここがあったからなのは間違いない。

借金完済へ

もう金利を考えない返済方法はしない。
三洋信販武富士に2万づつ合計4万返済。その時点で半分は金利なので毎月2万円元金が減る。今考えたら全然真剣に返済してない。。。もっと多く返せたはずだけど、やっぱ遊びながら返してたんだなぁ。
当時の朝日新聞は専業社員にボーナスが30万あった。
今は無しかあっても金額がだいぶ少ないと聞いた。
ボーナスのたびに税引28万をまるごと返していく。
こうなるともう簡単。追加の借金をしないからボーナスのたびにどんどん減っていく。遊びながら返してたので2年かかって完済。
最後のほうはもう仕事にもなれて楽になってたのでほとんど苦労した感じはしなかった。
楽とはいえ、この仕事は休みに休んだ気にならない。
次の日に2時半におきないといけないのと、1階が販売店なので外出が面倒だった。
借金を完済して、一人暮らしの資金をためたところで終了。
苦労どころか、結果的に借金があったから今東京で生活できているとも言える。人にも大いに恵まれた。

まとめ 借金する時は金利を考えて

借金はしないに越したことはない。
でもどうしようもない事もあると思う。
金利なんて考えられない状況に陥ることもあるかもしれない。貸してくれたらどこでもいい。
でも、借りる前に金利や金融屋の仕組みにも目を向けてほしいと思う。
本当は学校で金についての勉強を教えるべきだけど、何故かやらないので自分である程度はやるしかない。
無知は罪だ。自己責任になってしまう。
自分の場合は運がよかったので大した苦労もせず人にも迷惑をかけず完済することができた。
人によっては苦労を強いられるかもしれないし、やりたいことができても借金のせいで遠回りをしないといけないかもしれない。
借金で人生が破綻すると、自分は思えない。それよりもさまざまな仕組みを知っておいたほうがいい。それを知らずに破綻することはあるかもしれない。
なぜ学校は世の中の仕組みを教えないのか。そう思いつつ、そろそろこの記事を終わりにしたいと思う。
最後まで読んでいただきありがとうございました。